し   ゃ   ご   う
社   号

 
当社の正式社号は「建水分神社(たけみくまりじんじゃ)」であるが、地元では通称「水分神社(すいぶんじんじゃ)」として広く親しまれている。

 また古来には別名「水分大明神(みくまりだいみょうじん)」、「上水分宮(かみのみくまりのみや)」等とも称せられた。

 この「上―」は、富田林市に鎮座する美具久留御魂神社の「下水分宮」の呼称に対応する。(他称として美具久留御魂神社を「中水分宮」とし、八尾市鎮座の恩智神社を「下水分宮」とするとも云う。)

 尚、「建水分(たけみくまり)」の「建(たけ)」は「猛々しい」という意味の美称であり、「水分(みくまり)」は用水を公平に分配する事で、「水配り(みずくばり)」から「みくばり」、そして「みくまり」へと転訛した。

 因みに当社と同じく『延喜式−神名帳−』記載の水分系の古社としては、「大和水分四所」と呼ばれる社(吉野水分神社、宇太水分神社、都祁水分神社、葛木水分神社)が知られているが、「みくまり」の神は、後世さらに訛り、「みこもり(御子守・身ごもり)」となり、「幼児守護・子授け」の神としての信仰も発生した。



       

            大鳥居扁額

 延元五年(1340)、楠木正行公(正成公嫡子)奉納の木額の表面の文字(伝・後醍醐天皇宸筆)が摩滅した為、宝永二年(1705)、金銅製にて模造された。文字は時の前大納言・葉室(藤原)頼孝卿によるものである。


       社号標

 元来、『建水分神社』の上には神社国家管理時代の社格、『府社』と刻まれていた。しかし大東亜戦争中、軍部との関係が深かった当社に対するGHQの干渉を懸念し、戦後間もなくセメントで埋め隠された。





河内國石川・古市・安宿郡
絵地図(部分)天保8年(1837)

 当社を『上水分宮』、摂社・南木神社を『南木大明神』と記している。