こ ん ご う と ざ ん ど う    い わ く ら    く  ひ
金剛登山道・磐座・句碑
       

 古来、河内から金剛山への道は当社を起点とするのが主要道であった。神社参道入口に江戸期の金剛山道標があり、山頂までは一町毎に標石(町石)が備えられていた。

 しかし、この道も荒廃し不自由な部分もあった為、昭和10年の大楠公600年祭の記念事業の一環として、元の登山道を一部利用して新たな登山道が拡張整備された。

 現在は当社境外で南河内グリーンロードや企業進出により、往時の道は一部寸断されて利用する者は少ない。

  


 手水舎と摂社の間にある昭和10年の新設登山道の道標。

 『金剛山登口 頂上迄六拾町』 (60町=約6,6km)

 新道は、旧道の距離を一割程短縮され、上り2時間半、下り1時間半の行程であった。

 江戸時代の儒学者、貝原益軒は『和州巡覧記』(元禄9年・1696)の中で当社から金剛山々頂までの旧登山道の道程を「河内の方のふもと、水分の社より六十六町あり」と記している。






 磐座とは神を社殿に祀る以前の古体で、岩石を神の依代とするものであるが、これは古いものではない。

 前述の昭和10年に金剛登山道が整備された時、登山道より60mのこの地に児童公園が造営された。その公園入口の標石にと、当社の建武以前の鎮座地である水越川々辺の上流より運ばれたものである。

 昭和20年代半ばに公園は閉園となり、遊具等も撤去されたが、この石だけは存在を留めた。その後いつしか、この石に神の降臨を感応した人々が自ずと手を合わせ祈りを捧げ、注連縄を飾り、また供物を献じ、『磐座』となった。


  

 『 水分の 神の見給ふ 棚田打つ  和史

 なだらかな登山道を130m歩んだ境内南端の丘にある。

 崇敬者・福田和史氏(俳誌『こげら』主宰)による奉納句碑。 (平成2年5月20日建碑)