ご  ゆ  い  し  ょ
御 由 緒
 創建は第10代崇神天皇5年(西暦前92)で、同天皇が天下饑疫にみまわれ、人民が農事を怠った時、諸国に池溝を穿ち農事を勧められ、この時勅して金剛葛城の山麓に水神として奉祀せられた。

 延長5年(927)修撰の『延喜式−神名帳−』に「建水分神社」と記載(河内國・石川郡・官幣・小社)の式内社である。また延喜元年(901)撰上の『日本三代実録』には貞観5年(863)正五位下、貞観16年(874)従四位下、元慶3年(879)従四位上が朝廷から授けられるという叙位累進の昇叙記録が見える。

 世々皇室の御崇敬極めて篤く、第96代後醍醐天皇の御代に至り、建武元年(1334)楠木正成公に勅して、元は山下にあった社殿を現地山上に遷し、本殿、拝殿、鐘楼等を再営させられ、延元2年(1337)神階正一位の極位を授け賜った。

     
                    大鳥居と狛犬 (石造・大阪府内最大級)


 当社は霊峰金剛山の総鎮守で、古来より付近十八村の産土神であると共に、累代此地を本拠とした楠木氏の氏神でもある。正成公は勅を奉じ征賊の軍を起こすに当たり、当社への祈念厚く、

  「久方の天津朝廷(あまつみかど)の安かれと 祈るは國の水分の神」

と詠まれ、公の純忠のいかばかり神助を仰がれたかが推察される。

 中世には、織田信長が河内国攻略に際し、当社領を悉く没収し、境内も焼討ちの被害に遭い、社頭は一時衰退した。しかしながら、豊臣秀吉は再び田地を祈祷料として寄進し、深く崇敬するところとなり、次第に旧に復するを得た。

 尚、大鳥居の「正一位 水分大明神」の扁額(社号参照)は、楠木正行公(正成公嫡子)奉納の木額の表面(伝・後醍醐天皇宸筆)が摩滅した為、宝永2年(1705)、金銅製にて模造したもので、文字は時の前大納言・葉室(藤原)頼孝卿の筆によるものである。

 明治6年、付近十八村の総鎮守・産土神の故を以て郷社に列し、明治40年、神饌幣帛共進社に指定せられ、氏子区域内十七の神社を合祀し、大正2年、府社に昇格した。




 鎮守の杜 全景 (南西より望む)

神域は森厳で円形を占める。
右寄りの小高い山上付近に
御本殿が鎮座する。

社域5,338坪。




 又、戦前教育において、楠木正成公は史上随一の忠臣であり、日本国民の模範的人物とされた。然るに公を崇拝し敬愛する多くの人々が、楠木氏の氏神であり、公を御祭神とする摂社・南木神社を祀る当社に参詣した。

 さらに前の大戦中、幾多の海戦に参戦し、最も活躍した軍艦の一つに数えられる戦艦『金剛』には、当社が古来より金剛山鎮守として崇敬されてきた所以により、その艦内に建水分大神の御分霊が勧請され、奉祀されていた。
 『金剛』は、その戦歴から「鬼の金剛」と称され、大阪港へ寄港の際には、艦長以下、乗組員が艦の守護神とされた当社へ参拝することが慣例となっていた。

                                    
                          戦艦 『金剛 』

 尚、境内社として、前述の摂社・南木神社のほか、本社拝殿北脇に末社・金峰神社を祀る。

 昭和10年に大楠公600年祭、同60年に大楠公650年祭を斎行し、平成20年には、本社の御創祀2100年を迎える事となる。